前日の天気予報を見ても、風も弱そうだし終始晴れ予報の絶好のチャリポタ日和だった。
一応、地域の歴史探訪的な気持ちもあって、以前から気になっていた「神野三十三観音」から、気分が乗ったら御津町の「引馬神社」と「御馬湊」までを目的地としました。
自宅から国道23号線バイパスで神野埠頭方面に抜け、神野埠頭の旧堤防沿いに並ぶ三十三観音石仏は昔から姿は見ていたのに実際に訪問したことはありませんでした。
埠頭の入り口信号から旧堤防を進むと観音様には会うことができましたがいきなり草ボーボー、木も育ってきているので本当に走り辛い(^^:
柳生川河口方面に進むと1番の観音様が現れますが、その先にも石仏が見えています。
旧牟呂港の手前にあるのは、三十三観音の本当の起点にあたる「大日如来」のようでした。
ここから1番の青岸渡寺如意輪観音のすぐ先には、ベイブリッジウェイの歩道(ここも草ボーボー)から合流して地下をくぐる階段が見えています。
大山ICへと下るランプ側には「歩行者と自転車と大八車は通行できない」という意味の規制標識がありますが、ベイブリッジ側には歩道が設置されているのが見えます。
つまり、この階段がベイブリッジを渡って船渡側に繋がる歩道の入り口ってこと??
早速自転車でくぐってみると、ランプウェイの下を通ってベイブリッジの歩道に出ることができました(^^)。
驚いたことに、こんな判りづらくて人家とも離れた訳わからない道でも知っている人は知っているようで、反対側から歩いてくるおじさんとすれ違いました。

三十三観音の起点には「大日如来」(左) 三十三観音の一番「青岸渡寺
如意輪観音」(右)。

ベイブリッジの歩道。(これは船渡から神野埠頭方向)

金属スクラップの運搬船。
ベイブリッジの歩道を走って船渡側へ渡ってみると、再び大山からのランプウェイの下をくぐる階段が現れ、船渡側の歩道が途切れて「船渡緑地」に繋がっていました。
それでは、船渡側から神野埠頭方向へのベイブリッジにも同じように歩道があるはずなんだけど、入り口は…探しても見つからない??
南側から臨海道路の歩道を走れば行けるんでしょ?と思ってぐるぐる回ってみても、そもそも海軍橋から北側の臨海道路には歩道さえない??
もう一度来た方向に戻って反対側の橋を見ると確かに歩道があるし、再び橋の下をくぐって大山IC行きのランプウェイとベイブリッジの間の藪の中にある舗装もされていない踏み跡みたいなのに歩いて入ってみたら草ボーボーの先に歩道への入り口がありました…ナンジャコレ(^^;
そこから先はもう一度ベイブリッジを渡って神野埠頭へ向かいます。
神野埠頭側も、階段でランプの下をくぐってみたら、やっぱり藪の中に出口がありましたが、今度はベイブリッジウェイ沿いに埠頭の入り口の信号に向かう歩道はありません。
つまり、こちら(左側通行で船渡から神野埠頭へ向かう)方向はベイブリッジには歩道があるものの、前後は全くまともな歩道に繋がっていないっていう、いかにもお役所仕事的な片手落ちな造りってことだね(^^;

神野埠頭のタグボート兄弟も今日はみんなお休み。

インドから到着して納車前整備を待つ遊牧民たち。待たせちゃいかん(?)と、猛スピードで移動していた。
港を突っ切ってVWの車両基地なんかを見ながら六条潟大橋を渡って堤防沿いに出ようとしたら、橋から堤防に繋がる道はありませんでした(^^;
そのまま内陸へ進み、豊橋総合スポーツ公園手前の二十間川から堤防道路に出ました…あれれ、結局のところ三十三観音の中盤はすっ飛ばしてしまったということだね(^^;
神野堤防を六条潟の堤防沿いに進んで豊川の河口に入るところで三十三番目の観音様になります。
豊川の河口沿いに行くとまたまた堤防工事に突き当たり、迂回路を通って国道23号バイパス豊川橋の歩道を通って前芝へ渡り、再び堤防道路に入ります。
ここらでお腹もすいてきたので、気になっていたカレー屋さん「ガネーシャ」に立ち寄ってカレーとナンのお昼ごはん。

一直線に続く六条潟の神野堤防。(左) 23号バイパス豊川橋を渡って前芝へ。(右)

この日一番の秋色。

佐奈川河口から三河臨海緑地へ渡る橋。

日本列島公園を過ぎて音羽川の河口へ。
再び堤防に戻って海沿いを進み、佐奈川を渡って三河臨海緑地に入り、日本列島公園を通過、音羽川を渡って御津町に入り、堤防沿いを行くとすぐに「御馬湊跡」に到着です。
かつては東三河一円の年貢米を集積して江戸へ向けて積み出す港があった場所で、安政地震の際には津波により多数の年貢米が流出したということです。
今でも小さな港になっていますが、教育委員会が立てた案内板意外には当時を偲ばせるものはないみたいですね。

かつての「御馬湊」跡は今でも小さな港になっている
ここからは内陸へ進み、最終目的地の「引馬神社」へと向かいます。
持統上皇の三河行幸の際に歌が詠まれた故地「引馬野」を表すのが当地の「御馬」という字名とされ、中学校の頃だったかに先生から聞いた記憶があります。
でも、よくよく調べてみると神社の名前自体は明治時代に「引馬神社」となったとのことで、どうやら歌枕の地であるという説を補強するためにあえてその名前に改名したようですね。
(故地の候補として江戸時代頃から浜松の「曳馬」がライバルとして浮上してきたため、対抗心を燃やしていた?)
もちろん「三河行幸」なのに遠江の曳馬というのも変だし、近年はおおかた御馬説が優勢のようで、境内には斎藤茂吉による引馬の比定の碑もありました。

引馬神社。

地頭条項の三河行幸時にこの近くに船で上陸したとされる。
とりあえず予定通り(?)目的地に到達したので、帰路は出来るだけ海沿いに走って(逆打ちですが)三十三観音もしっかりなぞって帰ることにしました。

再び神野堤防を辿って帰る。

六条潟の神野堤防から見る三河湾は広大に見える。

帰りは神野埠頭のアンダーパスからベイブリッジを渡って帰る。
今回のルートだと走行距離は50kmくらいだったけど、本当にアップダウンがほとんど無いというのも良かったかな(^^)
----------------- 2025年12月8日(月) 伊奈城ポタリング -----------------
国道23号バイパスを通るといつも田んぼの中にこんもりとした姿を見せている伊奈城址ですが、やはり中学校くらいの頃に先生から聞いた覚えのある徳川家の「三つ葉葵の紋」発祥の発祥の地とは知っているものの、行ったことはありませんでした。
前回の神野堤防三十三観音ポタの際にも遠目には見ていたので、同じようなルートで行けばアップダウンも無いし、帰りが追い風になるエリアなのも良いよね。
今回は自宅から船渡緑地〜神野埠頭〜神野堤防〜豊川橋〜佐奈川右岸というほぼ海沿いルートで向かいました。
最短ルートではないけど、神野埠頭から先は工事迂回が必要な場所以外はほぼずっと堤防道路で、路面も良いし余計な交差点や信号も無くて安全なのがチャリ向きですね。。
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相変わらず港のモータープールには遊牧民の群れ。

今日も三十三観音を見ながら堤防道路を行きます。
佐奈川堤防道路から田んぼ道に入ればすぐ向こうに「伊奈城址」の高まりが見えてきます。
城跡自体はそれほど広くありませんが、堀や物見櫓風のものが建てられていたり、トイレもきれいに整備されています。

田んぼの向こうに「伊奈城址」がこんもり見える。

堀や物見櫓などが再現された「伊奈城址」。
トイレの目隠し板の内側にはいろいろ伊奈城や伊奈本多氏に関する資料が掲示してあり、これまで良く知りませんでしたがなかなか興味をそそられます。
ちょうど脇の駐車場に車が入ってきて二人の先輩的年齢の方が城跡に入ってきて、挨拶したら地元の伊奈史跡保存会の方だそうです。
今風に掲示されているQRコードを読み込むと郷土史会のHPが表示されるようになっているとのことで、いろいろお話も聞けました。
一見すると海抜0m地帯に築かれた典型的な平城で、周囲に環濠と土塁を巡らせた造りだったように見えますが、保存会の方から聞いた話では平成のふるさと創生事業で発掘・整備され、埋め戻す際に周囲よりも高く土盛りをしただけで、やはりその前は土塁以外は周囲の田んぼと同じ水準だったそうです。
また、土塁自体は残っているのはほんの一部で、「昔はもっと大規模に土塁が残っていたらしいんですが、昔の地震(安政地震のこと?)で三河湾沿岸に津波の被害があったときに、堤防の復旧のために土塁の土が運び出されてしまったんです。」とのことです。
周囲はもともと湿地帯や佐奈川・音羽川などの旧河道が蜘蛛手に別れた水運の盛んな場所で、掲示されている写真等によると、発掘調査で堀の中からは戦国時代そのままの「逆茂木」も発見されているとのことです。
現在は城跡のすぐ背後に新幹線も通っているため、路盤の土手で旧縄張りの区域は分断されてしまっているようにも見えます。
新幹線の土手の北側に「葵の紋」の元になったミズアオイの生えていたとされる「桜ヶ池」の痕跡もあって、小さな園地として整備されていました。
見ているうちに伊奈城址や伊奈本多氏について興味がわきましたが、今回は下調べ不足なので「若宮八幡宮」に立ち寄ってからお昼ご飯にしようと思います。

伊奈本多氏が勧請した「若宮八幡宮」。
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以前にも立ち寄ったことのある佐脇原の「観音寺の大クス」は樹齢900年以上。
しかし、伊奈周辺ではこれといった食事場所が思い浮かばず、以前の職場近くにある八幡町のカレー屋さん「コジゴロ」にお邪魔することにします。
八幡町近辺に来たら何だか雲行きが怪しくなってきて、雨もポツポツ…それ以上は悪化することは無くて一安心(^^;
「コジゴロ」はお馴染みの工具屋さん「ファクトリーギア」に毎月出店されていたので店長とは顔見知りながら、お店に行くのは実は初めてだった。

「コジゴロ」で美味しいスパイスカレー。

「三河国国府跡」近くの「三河総社」。
美味しいスパイスカレーをいただいて、店長とお喋りして帰りました。
途中で「三河総社」(国司が国内の神社を廻る手間を省くため、国府の隣りに主要神社をまとめて勧請したもの)にも立ち寄り、また神野堤防を走って帰りました。

帰りは引き潮で干潟が広がっていた。(左) 六条潟の神野堤防滑走路。(右)

ロケーションの良い場所でお約束のチャリ撮影。
--------------- 2025年12月18日(木) 東海道
御油〜藤川ポタリング ---------------
地域の歴史探訪(?)というテーマで、御油から西に東海道を辿って往時の雰囲気を残す町並みを楽しもうということで、まずはスイフトにチャリを積み込んで豊川へ。
豊川市の国指定史跡「三河国国分尼寺跡」にある史跡公園からチャリで出発することにします。
でも、まずは史跡公園と「三河天平の里
資料館」に立ち寄り、展示や映像も見ておきます。
そこからチャリですぐの場所にある国指定史跡「三河国国分寺跡」「八幡宮」にも立ち寄って、のっけからけっこう時間かかってますが、これがishida式(^^;

「三河国国分尼寺跡」では、当時の技法で中門が再現されている。

「三河国国分寺」に唯一残る古代の梵鐘。

「八幡宮」の的屋はメチャ大きい。
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国指定重要文化財の八幡宮本殿は室町時代の建立。
八幡宮から国府駅南の踏切を渡って国道1号を横切り、旧東海道に入ります。
音羽川にかかる旧御油橋を渡った先は曲尺手状に曲がっていますが、概ねはほぼ真っ直ぐ、御油の町並みを抜けると「御油の松並木」となり、松並木の保護のためにあえて車道を狭いままにしてあるので、やっぱり楽しむなら徒歩かチャリが好適ですね。
赤坂宿に入ると立派な佇まいの旅籠「大橋屋」に至ります。
東海道五十三次で唯一、江戸時代から当時の建物のまま21世紀まで存続した旅籠だった「大橋屋」は2015年まで旅館として営業していました。
現在は市に寄贈・修復されて資料館として公開されているので、定休日の月曜日以外は自由に見学できるようになっています。
ちょうどボランティアの方と話が弾み、内部も見学させてもらったり撮影に励んでいるうちに、もうとっくにお昼過ぎです(^^;

音羽川を渡る「御油橋」。すぐ上流には「新御油橋」が架かっている。

「御油の松並木」はわざと狭いまま維持されている。

21世紀まで江戸時代から続く建物で営業していた旅籠屋「大橋屋」。
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「大橋屋」の内部。
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初期には「鯉屋」という屋号だったそうです。
赤坂から長沢〜本宿間はずっと登り区間になるうえに今日は北西の風が山の狭間を通って増速するベンチュリー効果で増幅された向かい風、すきっ腹にはちょっと堪えましたが頑張って本宿まで行ってお昼ご飯にすることにしました。
(なんて言いながら、本宿に入ってからもちょこちょこ寄り道)
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本宿(ややこしいけど東海道の宿駅ではない)の入口。

本宿の古民家。木曽は現代的に改修されている?
若かりし頃に本宿の旧道を通った際に「万十味噌醤油」の屋号を掲げたレトロな建物があったという記憶があって、今回探してもその看板は見当たりませんでしたが、記憶にある場所には古めかしい建物と「日本レトルトフーズ」の工場がありました。
以前は醤油の醸造を主体とした「神谷商店」という会社で、「アイチ味噌溜店」として「万十(マンジュー)」ブランドの味噌醤油を販売していたらしい。
事業領域と社名変更でレトロな看板は無くなってしまいましたが、当時の建物が「岡崎市重要景観建造物」の指定を受けているとありました。
奥のほうでは今でもいかにも大豆を蒸しているっていう感じの湯気の上がる建物群、配管やタンクも見えました。
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かつて「神谷商店」として「マンジュー味噌醤油店」を営んでいた「日本レトルトフーズ」の社屋。
以前から気になっていた「ほろほろ」でお昼をいただき、元気が出たところで次の宿場「藤川宿」へ向かいます。
本宿から藤川にかけては下り坂となっており、本宿〜山中間と山中〜藤川間で旧東海道はいったん国道と交差し、藤川宿の入り口で再び旧道の町並みになります。
藤川宿は愛知県内で唯一「歴史国道」に指定されているそうで、脇本陣の門と石垣が残り、藤川宿資料館も設置されているとのこと。
資料館前も通りましたが、思っていたよりも古い街並みの雰囲気は残っていないような…(二川のほうが町並みは残っている感じ)
藤川宿の先で道が二股にw枯れ、吉良道との追分の石標が立っています。
その先には、おそらく旧東海道で唯一だと思う「名鉄本線との踏切」がありました。
その先は国道1号線と合流しますが、そこまでの間には松並木が800mほどにわたって残っていますが、南側が工場に接していてあまり趣きが感じられないのが残念。
とりあえずここが今日の最終目的地なので、Uターンして本宿方向に帰ります。

藤川宿の数少ない伝統的建築。

吉良道との追分。向こうに名鉄本線の踏切。

藤川の松並木。キチキチまで根際が固められて風情に欠けるし、松に良くないよね。
本宿では本宿駅前にある旧本宿駅の模型とご対面、これまで間近に来て眺めたことがなかったですが、何となく45年前の懐かしい思い出が蘇ってきました。
駅の先で「旧宝飯郡本宿村役場」の建物にも目が留まったのでこちらも見学しておきます。
昭和3年に宝飯郡本宿村時代として建てられたもので、解体修理されて資料館となっています。
ボランティアの方がいろいろ親切に説明してくれましたが、そういえば「冨田勲」も本宿出身だけど、もともと地元の代官を務めた旧家の出身で、陣屋跡にある「冨田医院」は弟さんが現在も院長なんだそうで、午前中に来た時に陣屋跡にも行って医院も見たけど(^^)
それに、さっき見てきた「旧本宿駅舎」は「蒲郡プリンスホテル(現蒲郡クラシックホテル)」の屋根を真似て改築された姿だということもここで聞いて初めて知った。

国道1号線が拡幅したため、本宿駅が高架化されて取り壊された「旧本宿駅」の模型。

「旧宝飯郡本宿村役場」。

お約束のチャリを入れた撮影(^^)。
本宿の先が峠越えの最高地点で、ここから先は赤坂まではずっと下り坂をビューンといけました。
御油の追分で姫街道に入って名鉄を越える陸橋を渡ったら、自転車を降りたとたんに急な尿意を催して大ピンチ(^^;何とか国分尼寺跡の歴史資料館まで大急ぎで帰りました。
翌日から何日か、太腿の後部に激しい筋肉痛が続いてヘロヘロでしたが、二日前の12/16にも奥さんと砥神山・御堂山へ行って疲れが蓄積していたせいようです(^^;
--------------- 2025年12月28日(月) 伊奈・篠束・前芝ポタリング ---------------
恐らく今年最後のポタリングは、再度下調べをして「伊奈城址」と「伊奈本多氏」の旧跡を巡ってみることにしました。
これまたお馴染みになった船渡〜神野埠頭〜神野堤防を経由して伊奈へ向かいます。
神野堤防からはこれまでにないくらいクリアーに南アルプスの山々が見えるだけでなく、湖西連峰の北の端から「富士山」も見えました。
この位置関係は、下五井にあったとされ、富岳三十六景の「吉田宿 不二見茶屋」の延長線上ってことだよね(^^)
これまで国道23号バイパスなんかでも一生懸命(?)目を凝らしてもわからなかったわけで、見える位置関係が全然予想と違っていた(^^;。

聖岳、赤石岳、左端には塩見岳も見える。

湖西連峰の北の端から富士山というのは今回初めて実際に見た。
豊川を渡って伊奈本多氏の墓所「お松見(おしょうけん)」に向かうと、やっぱり「伊奈城址」から目と鼻の先だった。
本多氏というと徳川四天王の「本多平八郎忠勝」が浮かびますが、本多正信も含めて同じ三河本多氏の流れをくむ親戚筋の家系ですね。
伊奈本多氏は従来から松平家と親交が深いようで、松平清康(家康の祖父)の代には本多家の「葵の紋」が松平家にも採用されたともいわれ、桶狭間の戦い以降は家康と歩みを共にしています。
初代〜八代目の康俊(養子:酒井忠次の次男)が関が原での論功行賞で転封するまでの150年ほどの間、伊奈城に居を構えていました。
初代〜五代目の墓所は「舞々辻」、六代〜七代目の墓所は「お松見(おしょうけん)」にあるとされていましたが、「舞々辻」のほうは現在は菩提寺の「東漸寺」に移されているとのことです。

「お松見」にある墓所の説明。

「お松見」から「伊奈城址」へ。
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「お松見」にあるうちの七代彦八郎忠次の墓碑。(左) 東漸寺の「五輪板碑」のひとつ。(右)
「伊奈城址」に再度立ち寄って、次に向かうのは伊奈本多氏が勧請した「若宮八幡宮」(前にも行ったけど)に向かい、先回ゆっくり見なかった場所ももう一度見ておきました。
史跡保存会のHPによると、拝殿の両側に取り付けられた彫り物は渥美郡高師村の彫師「伊藤利安」の手になるもので、中国の伝説の五帝の一人「尭帝」に帝位を譲ると言われて汚らわしいと感じて耳を洗う「許由」と(右)と、周時代の仙人「琴高仙人」が、竜の子を捕えてみせると称して大きな鯉にまたがって水中から現れたところ(左)を表わしているそうです。
脇にある天神社の社殿も彫り物が良いとのことですが、覆い屋の中で格子越しとなってしまい、うまく撮影できませんでした(^^;
「若宮八幡宮」を出て東に向かうと向こうにこんもりとした森が見え、そこが次の目的地の「東漸寺」です。

「若見八幡宮」の拝殿。

「若宮八幡宮」拝殿の左右にある彫り物。
伊奈本多氏の菩提寺とされる「東漸寺」には伊奈本多氏の初代〜五代までの墓所があるとされますが、これは前述のとおり「舞々辻」にあった石塔を移して再建されたものだそうです。
墓地にはこの地方では珍しい江戸時代の「五輪板碑」も残されており、そちらも見学しました。